昭和48年01月04日 朝の御理解



 御理解 第45節
 「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代が出来たり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくはど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つとというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つ ことはあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」

 世に三宝様踏むなと、これは穀物の意と、説明がして有りますね。三宝様と言うものは、いわゆる勿体無いもの、言うなら頂いておるおかげという風に、今日は頂いて、頂きたい。頂いているおかげを、踏みつける。頂いておるおかげを、おろそかにする、三宝様を。確かに、おかげをおかげと、段々感じなくなって来るとです。目が見えなくなって来る。心の目が見えなくなってくる。
 言うならお気付けを頂いても、お気付と感じなくなってくる。それは勿体無いおかげを、踏みつけておるからです。神様のおかげをと、言いよるけれども、自分のやり方が良いから努力しよるから、と言った様な考え方が段々強くなって来ると申しましょうか。本当に、三宝様は、実る程かがむ。本当の信心の徳と言うものが、身について来れば来るほど。実は頭が下がって行かなければならんのだけども。
 今申します人間は、身代が出来たり、所謂おかげを頂いて少し、金には不自由せんごとなった、商売も段々順調になったと言う事になって来る頃に、三宝様を踏むようになる。又は先生と言われるようになるとです。頭を下げる事を忘れる。結局それ迄に本当の信心が頂いておれなかったと、言う一言に尽きるのです。大体合楽で御信心の稽古をしておられる信心の層、と言うものを見て見ると、色々に分けられるんだと。思うのですけれども、時々お願いのある時だけ参って来る。
 私はそして合楽の信心しておる信者だと思うておるという程度の人。時々お願いか何か有ると、一生懸命お参りをして来る。おかげを頂くと又スッとしてしまう。と言う程度。神様のおかげと言う事を、知っておる訳です。けれどもこれは所謂言うなら、お願い信心とでも申しましょうか。次にはです。やは、難儀を難儀を感じつつ、どうしてもこれは神様おかげを頂かなければいけないぞと、いやどうしても一つ信心しておかげを頂かにゃと、まぁ言うて言うなら勢を揃えて信心をしておる。
 これはまあだ。難儀を難儀と感じて言うならば、苦しいから一生懸命お参りをしておると言うところ。次には信心によって段々、言わばおかげを受けて、身に徳が付いてくる、という身に徳が付く程と言うそれを感じて来る。言うなら益々信心の有難さが分かって来る。まあ例えて言うと、ここでも其の何でしょうか、ちょっと商売なら商売の上にでも、やれやれと言った様な、おかげを頂いておる人。同時に又先生と言われる様な、人達はもう三宝様をちった踏みつけとると、言う感じがしますですね。
 合楽の場合は自分もそう思っている。おかげと思っていない。けれども何とはなしに所謂実が実れば実る程、頭が下がると言う事になっていないと言う事です。そういうおかげを頂いておるなら、先生と言われる程しの信心を頂いておるなら、おる程頭が下がって来ると言う事は、お参りならお参りでも愈々有難い、勿体無いのお参りが出来なければ、いけないでしょうが。
 合楽で先生お言われる人達の、あれを見てご覧なさい。又は少しもう別にやあやあ、言わんでも良いと言う位に、おかげを頂いておる人達は、もう其のおかげを踏みつけとるです。自分では踏みつけとるとは思うていない。又実際に於いてです。踏みつけてはいないかも知れませんけれどもそんな感じです。ですから稔れば稔るほど、おかげを頂けば頂く程、益々そんならお参りに於いても、御用の上に於いても、出来なければならない人達が出来ない。だからこの辺の所からが難しいですね。
 そうなれば成程です。おかげを頂けば頂く程。お参りさせて頂かねばおられんのであり、御用はさせて頂かねばおられんのであると言う信心に、例えて言うとそんなら、夕べも遅うに私夜にここへ出て来て居りましたら、佐田さん達が御夫婦で参って見えた。そしてまあ色々おかげを頂いておられる話を、色々佐田さんがなさっておられましたがです。佐田さん達は場合なんかは、言うならばおかげを頂いて。
 其の間違いの無さに、只只恐れ入って、そんなら別に今、本当にまあ言うならどんどん、儲けだしござるところですから、やあやあ言わんでも、良くなって来たけれども、其のおかげがもう、本当に有難いと言うことは、三宝様と同じ事で、おかげを頂けば頂く程、頭が下がってきたと言う様子ですね。佐田さんもう、この調子でおかげを頂いて行きさえすりゃ、おかげ頂くとですがねと。
 そんなら高橋さん達の場合でもそうです。もうそれこそ手の広げられるしこ、手を広げさせて頂く程しのおかげを頂いて、もう本当に神様の御働きには、恐れ入ってしまう。と言う実感がね尚、こうしてそんなら福岡当たりから、もう親先生のお出ましを、拝むというくらいな毎日の信心が出来とる。もうそりこそ尻に火がついとるけん苦しゅうてこたえんけんでと言うて、それが出来るのとおかげを頂いて、所謂稔れば稔るほど、おかげを頂いて、そうなって行くと言う一つのケースです。
 合楽で佐田さんとか、高橋さんの場合は。私の信心はね。大体そうでなからにゃいけんのです。私の流儀は。昨日私上野先生でしたか、上野先生とここで話した事なんですけれども、今お正月で兄弟達が、皆んな集まっとる。それで帰ろうとこう思った。それでお届けまでした。けれども考えてみた処が、本当に私が、会いたいように、兄弟達にも会いたいなら、私がここで修行している此処へ、来るだろう、兄弟たちが。私は言うならば神様にもう、御備えした体。
 御本部修行中に、丁度両親が亡くなられ、兄弟が亡くなられると言う様な、大試練を受けた。お父さんが先でしたでしょうかね。亡くなられた時には帰らせていただいたけれどもです、お母さんが亡くなられた時、どっちかでした。二度目でした時にはもう私は、例え親の葬式でも帰らんと、帰ったってどうするか。私は愈々信心に打ち込んで行くが本当だと言う考え方。これはね私の行き方なんです。そういう信心は。昨日もだから北野の方に、言わば兄弟達が来とるけれども、もう帰らないとこう腹を決めた。
 しかしそこんところは、本当は信心の一番大事なところじゃんね。例えばいえばこうだから神様が帰れとか、帰るなとか仰る神様じゃ決して無いけれども、こちらが神様へ向ける心と言うものがです。一途な時にはそれが出来る。例えてああた方がね。段々取り次ぎ者としておかげを頂いて、そんなら結局先生がして来たような修行をです。させて頂く信者が、出来るのですから。
 神様に中途半端な信心をしとるところには、信者も中途半端な信者しか出来んし、本当に、其の身から打ち込んだ信心をしとりゃ、やはり信者も其の身から、打ち込んだ様な信者が出来るし。私共はこれは例えば、信者時代に共励会などに参りますと。どげん方角の違った所に参りましても、行きがけにお礼お届けさせて貰うと、帰りにも又よってお届けをして帰りよった。例えば渕上先生当たりとはいつも、連れでしたからですから、渕上先生当たりはかえる。
 それがもう普通であり当たり前である。行きがけに寄って共励会場から又、そこさえ教会さえけれども私は、帰らなければおられなかった。もう一辺教会にだから見なさい。此処の共励会なんかの場合には、必ず皆ですんだらお礼に出て来るでしょうが、こげな事は他所の教会では見られんとですよ。大体結局師匠がしとった通りの事を、又弟子達もするようなもの。だから出来るだけ高度な出来るだけ高度な、出来るだけ絶対な信心をしておくと、言う事が上野先生有難い事ジャンねと、言うて話した事でした。
 結局親の信心を見習うのですから。そういう中にあっても只今申しますように、合楽も様々な信心の層と言うものが有るけれども、本当言ったらもう人に一つの信心話出来るようになり、神様もある意味で頂かせてもろうて、言うならば三宝様じゃ無いけれども、尊い信心段々身に付いて来た。だから身についてくれば、ついて来るほど頭が下がって行くと言う様なのが金光様の信心。でなからねばならんと教えられている。
 処が其の程度の処で、所謂おかげを踏みつけにしてです。おかげも大体頂いておる。別にやあやあ言わんでも良いと言うくらいまで、おかげを頂いておる。自分のおかげ話を人にどもすると、ほおうと言う位なたまがるおかげを頂いとる、けれども其の頃からです。言うならば頭を下げることを忘れられて来る。もう一番大事な所、昨日の御理解で申しますとです。たとえ十里の道を九里半登っても、油断はしてはならない。九里半迄は登っておる。後の一押しと言う所。
 五つの願いの三つつの所は、一生懸命信心をしておかげを頂いた。家庭も円満健康にも皆なった。いわゆる子孫繁盛。このままで行くならするだろうと言うかに見えて来る。その事の願いはだから切実である。けれども後の二つの願いが切実さを欠く。本当言うたら、後の二つに重点が置かれる信心になった時にです。今日の御理解から言うと、頭が下げられると言う信心。
 そこで私共はいつも思わせて頂くことは、私はこの四十五節と言う事を、しじゅうご節と言う。しじゅうと言う事は、いつも五と言う事は、真ん中と言う事。いつも真ん中だとどんなに例えばそんなら、高橋さんにしろ、佐田さん当たりにしろ。まあ言うならおかげを受けておられるけれども、まあだまあだおかげの真ん中だと、言う様な考え方が有りなさるのじゃないだろうかと思う。佐田さんなんかはそうだと思う。夕べもその事を言っている。もう昨年からおかげを受けておる。
 色々様々な体験の中からです。もう神様の御働きには恐れ入って了まうと、言うて昨日夫婦の方がお礼を言うておられましたけれども、そんならおかげを頂いたからもうこれで良いと言うのじゃなくて、まあだまあだ今中なんです。厳密に言うとです。例えばそんなら、ここで先生と言われる人、まあどうやらこうやらおかげを受けておる人達、それと言うてそんなら決して信心が、御粗末とかどうと言う訳では無いけれどもです。
 何とはなしお日参りも出来なくなって来ると言う事は、すでに三宝様を踏みよる姿であります。言うならおかげを踏んでおる。さあ尻に火が付くごたる。難儀な問題の時には、やあやあ言うてお参りした時代も有った訳です。朝参りの味わいも、御教え頂く味わいも、有難いでお参りして来た時代も有るのですけれども、そこに、言うならば一段落的な、おかげを、頂いておるともうそれに腰を掛けておると言う感じ、今中と言う思いが少ないからじゃないでしょうか。
 今日は、合楽の信心の信者層の中から言うて、佐田さんとか高橋さんとか、おかげを受けておるから、もう腰掛けても言うなら、よかところ。神様も分かっておかげ話も、例え自分が頂いて来ておるおかげ話しをすりゃ人もほうと言う位なおかげ受けておる。けれどもここで挫折すると言うか。ここで三宝様に実が入っていかなかったらです。もうそれこそ、慢心が出るとおかげをとりはずすぞと、言う事になって来るです。
 合楽の信心の信者層の中に、何かがあってある時に、只おねがい参りをすると言う程度からお参りをして、一生懸命お参りをしよるけれども、それはどうでもこうでも、おかげを頂かんならんと言う事が有るから、お参りをしよると言う人と。三宝様じゃ無いけれども、段々信心に実が入って来て、だんだん頭が下がって来て、いうならばお日まいりを欠かす事は出来ない。御用もさせてもらわなければおられない。と言う様な所の信者層とが、有ると言う事。
 お互いどの辺の所に有るのだろうか。信心にはきりがない限りがない。そこで四十五節である。しじゅういつも真ん中だと、どんなに例えばそんなら、ここのご造営が出来た時に、みなさん方が、挨拶に素晴らしいおかげを、頂きなさったですね。と言われて挨拶を受けるけれども、私は一つもそれを大したおかげと思っとらん。おかげじゃないと言うのじゃないですよ。まあだまあだ神様は、どれだけ下さろうと、するやら分からん。そういう構えである。
 ですからこれで頂いたとは、思っていないから、五年後には又そっちが、出来たと言うことになって来る訳です。そんならもうここのお屋敷に一杯になって、西脇澱、東脇澱、本館と言う風に、出来てきたから、もうこれで良いかといっちょん思うとらん。だから勿論信心に油断も出来んけれども、けれどもまぁおかげを頂いて、いうなら信心もでけんのにこのようにおかげを頂いて居るという事に対する信心と同時に、今中と言う気ですから、信心にゆるめる事がない。
 益々そんなら、記念祭なら記念祭を境に、おかげを受けておる。それは私が稔れば稔ほど、頭が下がって行きよるからじゃないでしょうか。私は本当にここで、先生と言われおかげを頂いておる人達、言うならそういう人達言うならそういう人達でです。例えば何とはなしに、お参りが億劫に為ってきておる人達は、本当にここの所に、思いを置かなければいけないと思う。
 稔れば稔ほど頭が下がらなきゃならんのに、これはおかげを頂いて居るのに、頭が下がらんと言うのは、これは本当に実が入って頂いておるおかげじゃない。これはしいらのようなもの。しいら穂の様な者。これは本当の実をここに頂かなければいけないぞと私は、本当に気が付かなければいけないと思う。苦しい時の神頼み的な信心で、一生懸命出来て居ると言う人達、だからそういう時にです。本当のいうなら信心と言うか、五つの願いを分けるならば、三つの願いだけではない。
 言うなら後の二つの願いこそ、本当にお役に立ちたい、お役に立ちたい、の一念が、現在のおかげでは、この程度だから、もっともっと頂けば、もっとお役に立てれると言う、其の楽しみがです。こういう物がないようですねえ。今信心を合楽で幹部が先生と言われておる人達は。大体もうおかげは頂いておるけれども、本当にお役に立ちたい、お役に立ちたいと言う一念がない。もうこん位でよか位に思うとる。
 そこに私は頭を下げる。と言う言うならば、おかげを踏み付けるのでは無くて、其のおかげを愈々おかげにして行こうと言う、意欲が欠けて来るのでは無かろうかとこう思う。お役に立ちたい。お役に立ちたいの一念が、真実の御用をさせて、頂ける神願成就の事の為に御用にお使い回しが頂ける事を本当に願いとするほどしの信心になった時にです。私は愈々稔って来るところの、おかげに成るんだと思うのです。
 少しばっかり頂いとるおかげは、それは実っとるおかげじゃないです。其の証拠には、本当の意味で、例えば信心修行に取り組まれんじゃないか。本当に信心修行に取り組ませて頂くと言う思いが、愈々強う為って来ると言うのが、実れば実る程かがむ、と言うならば少しばかりの身代、人から先生と言われると、言うくらいの処からです、頭を下げることが忘れる様な信心であるならばです。
 大いに反省させてもろうて、改めて行かねばいけません。第一朝参りにもう目が醒めんてんなんてん、ちゅうごたる時には、もうそうなんです。おかげを頂いておるとでも、頭がさがっとらん証拠なのです。合楽では私はここの処を、私も大事にし頂いて来ておるのですからそういう信者が、沢山出来なければいけないと思う。身に徳が付く程屈んで通らせて貰える信心。そういう人達は、これで良いとは、決して思ってない。まあだまあだ今中だと思って居る。いつもがまあだ、真ん中だと思っている。
 同時に心の中に思わせて頂くのは、いよいよより真実の御用に、お使い回しを頂きたい。神様の悲願に、応え奉れる信心になりたい。と言う事を願いの中心に、出来てくれば来る程です。私は信心に油断が出来ない。いよいよ有り難うなってきて、稔れば稔る程、頭が下がって来ると言うおかげになるのであります。昨日、久富勇さんがお夢の中に、頂いておられる。正義さんの処へ行っちゃる。
 久富建設のそうして、正義さんに勇さんが言いよんなさる事が、どういう事を言いよんなさるかと、言うと「正義さん、沢山な人夫さんが、居るけれども、人夫さんの気持ちに為って人は使わにゃいかんばの。」と言い寄る処じゃった。そして今度は人夫さん達には、どういう事言いよるかと、言うと「あんた達がこういう事業は、自分でしよると思うて働かにゃ、いかんばの。」と言うて、言いよる処で目が覚めた。
 私は信心にです。本当に身が入って来れば入って来るほど、例えばそんなら、高橋さんなら高橋さん、佐田さんなら佐田さんの例を、今日は取りましたが、従業員の方達の事を、親身に思うてやれれる、主人にならなければならない。そういう主人の元には、必ず店の事を中心に思うてくれる従業員が必ず、出来て来ると言う事です。兎に角まあむごう言うてから、賞与的なもので機嫌を取って、例えば従業員を動かす働かすと言った様な、高橋さんがいつか頂いておられるご理解じゃないですけれども。
 「頭で使わず、金で使わず心で使え。」と言った様な事を、頂かれた事が、有りますがね。信心させて頂いて稔って来れば、稔って来るほどです。私は沢山な従業員を使うようになれば成る程、従業員の一人一人の事を、私は本気で考えてやりながら出来れる、店主であり。社長さんでなからなければ、本当な事は出来ないと思うです。只給与は払っとるから、賞与払っとるだけじゃいけない。
 親身に従業員の事を、正義さん人夫さんの気持ちになったつもりで使わんのと、人夫さん達は又あんた達は、こういう事業を自分がしとると思うて、おかげを頂きなさい。そんならここの修行生の場合でもそうです。私が修行生の一人一人のことを、真剣にこの人達の立ち行きの事を、私が願うならです。修行生も自分ももう布教にでも出ておるつもりで、修行させて貰うと、言うならです。
 とてもそこに電気を点け忘れて居るとか、そこに下駄が散らかって居るとか、そこが汚れて居ると言ったような事は、とても出来る筈がなかて。自分が布教にでも出とるつもりで有ったら。信者に対してでも本当に心から接しなければおられない。自分の気分に合う信者だけ、都合よう言うけれども、でなかつには不親切だと。言った様な事は、とても出来る段のこつじゃなか。
 例えば人夫さんに、自分がこういう仕事をしておると思うてしなさいよ。主人には自分が人夫さんに為った積もりで、人夫さんを扱いなさいよと言うような事は言われたけん、ほんにそうたいとと言うて、出来るものじゃないです。これは言わば信心に身が入って来れば来るほど。そうならなければ、おられんのです。そういう私はおかげを頂くことがです。ですから先生と言われ、又は少し身代が出来てきて、やれやれと言う時に自分の心に大いに反省させて頂いて。
 果たしてこれはおかげは受けて行きよるが、おかげに伴うた実が入ってきよるだろうかと。それを今端的に自分の信心を確かめて見るよしなとしてはです。五つの願いの最後の、二つの願いの処にです。本当に真剣に祈れる。自分かどうかと、言う事を見て見ると分かるですね。自分の信心はまあだしいらだな、本なもんじゃないぞ。おかげを受けておるけれども、これではやれやれと、言うておかげに腰掛けておるようになる。今中と言う事を思っていない。
 おかげは限りなく頂いて行きたいのですから、私共は本当に実の入った信心。稔れば稔ほど。自分乍ら頭が下がって行く自分を、感じられる信心を、身に付けて行かなければいけない。皆さんが合楽での信心の層と言うものを、一遍見渡してご覧なさい。私がいくつもの信心の層と、言うものを申しましたが、だからそれがいけないことじゃ有りません。そう言う下層一番下の層に有っても、次の層を目指せば良いのです。
 同時にです。本当おかげを頂いて、合楽で先生と言われる程しの、信心も出来たと言う人達がです。本当に三宝様を、踏むなと言うように、益々頭が下がって、行きよる様な、人もあるけれども、出ない人もあると言うこと。それを見れば、一目瞭然に分かって来る。第一にねもう朝参りが、出来なくなるなんて、筈は絶対ないのです。金光様の御信心には、もう稔って来れば来るほど、特に合楽ではですね。
 例えば日々の更なる御理解を頂いておるのですから、とてもそれを頂かなければ、今日一日は始められんとですよ。本当いうたら。その位に感じれれる信心で有って、初めてあなたの信心は、実っていきよると言う事がいえるのです。けれども自分は成る程。日参り夜参りをしとる。けれどもそれはどうでもおかげを頂かんならんから、ある意味では苦しいから、お参りして居るとだと言う人も沢山あるのです。それがいけないのじゃない。そう言う苦しい時にです。
 愈々五つの願いの最後の、二つの所が祈れれる真剣に祈れれる。言うならば自分の事として、言うならば主人が人夫さんの気持ちになって祈れる。主人が人夫さんの気持ちになって祈れれる信心をね、今こそ身につけておかなければならない時であり、同時にそんなら、おかげは頂いて居ると致しましてもです、それは何処までも今中であり、まあだ今は半分目という気持ちでの信心。愈々益々頭が下がって行くと言う信心。言うならお役に立ちたい、立ちたいと言う一念が燃えて来る信心。
 そう言う信心を頂かせて貰う所から。実が入って来るいわゆる実が入って来ると言う事は、徳が受けられると言う事になる。三宝様踏むな。三宝様踏むと目が潰れると言うが、と言う所をです。今日は特に今日は三宝様と言う事をです、おかげと言う事。おかげと言うものは尊いもの、勿体無いもの。其の勿体無い物を有り難いと言いも、思いもしよるけれども、事実は踏みつけておる様な事はなかろうか、その証拠には朝参りもできんごとなりよるじゃないかと。
 すから三宝様踏むと目が潰れるもう既にです。目が薄くなってきよる訳です。恐い事です。本当に頂いて行っておる。そのおかげにこれが本当のおかげか、本当に実りがそこん所を、自分の心の中に段々頭が下がって行きよるか、お参りが愈々有り難くなってきよるか。修行が愈々有難くなって来よるか。御用が愈々有り難うなって来よるかと、言うところをです。見極めさせて頂き乍ら信心を進めて行きたいですね。
   どうぞ。